篠ノ井大獅子
篠ノ井祇園祭のはじまり
布施村が町制を施行して篠ノ井町になった大正三年、篠ノ井祇園祭が始められたときの写真です。
「船」が登場していますが、なぜ「船」が登場したのかを考えてみました。近隣には戸部伊勢社(伊勢神宮の分社)、小松原伊勢社などの神社があり、二十年、七年ごとに「式年遷宮祭(ご神体を本来の場所から移して社殿を改造し、再び御鎮座いただくこと)」が行われてきています。改築・修繕が終わって、ご神体を本殿に移すその行列に「船」や「稚児行列」が登場します。左の写真は平成二十五年九月二十二日に行われた戸部伊勢社式年遷宮祭です。大正三年に始められた篠ノ井祇園祭には、「船」「稚児行列」が登場していることからからして、少なからず近隣の神社の式年遷宮祭を参考にしたのではないかと思われます。伊勢神宮に問い合わせたところ、『伊勢神宮の式年遷宮祭には「船」は登場しない。長野独特のものではないか』とのことでした。三田村佳子著「風流としてのオフネ」(信濃毎日新聞社)には『北信地方の神社は諏訪大社上社の影響を受けおり、御柱の先導役やお賽銭を投げ入れるための船が、北信地方に広がるにつれて、遷宮祭におけるご神体の先導役や切り餅などの御供をまく宝船という形に変化していった』などということが書かれています。写真をみると、篠ノ井祇園祭に登場した船には、宝船につきものの米俵のようなものが積まれているように見えることから、御供をまく宝船であっと思われます。しかし、宝船は先導役であり、諏訪大社下社の「お舟祭り」に登場する舟のようにご神体をお乗せするものではありません。祇園祭は疫病から守ってくださる牛頭天王を祀るお祭りですので、どのように牛頭天王をお迎えしたのかは分かりませんが、大正三年に祇園祭を始めた先人の方々は、牛頭天王をお迎えし、宝船で町内を巡って、無病息災を祈念しようとしたのではないかと思われます。写真には、三日月の看板のおそば屋さん「清月」の店先に「氷水」の旗が出ており、季節は夏です。このように遷宮祭が行われる秋ではなく夏に、伊勢神宮や諏訪大社などの祭りの要素を取り入れながら、篠ノ井祇園祭として、独自なかたちで始められたのではないかと思われます。「二葉組合」の旗と「商」の字の旗が、行列の先頭にみえます。料理屋・置屋の組合である「二葉組合」と篠ノ井商工会議所の前身である「篠ノ井停車場商工組合」が中心になって、祇園祭を始めたことがうかがえます。
宝船の後ろには、屋台が見えますが、お囃子を奏でたのではないかと思われます。
写真は篠ノ井駅方面から撮影されたもので、萬屋、清月、六三銀行、万柳、まつかねやの建物が見えます。まつかねやは片倉の前あった三階建ての木造の建物です。
「稚児行列」が見えますが、一回目の祇園祭から、先人の方々は子どもたちをお祭りに参加させようと考えていたことがわかります。
獅子のルーツ
篠ノ井の祇園祭の始まりは大正三年。その十年後大正十三年(1,924)初代の獅子が登場します。
民俗芸能の通例として、いつ、誰がこれを考案製作したのかという話しは確かな形では伝えられていません。初代の獅子を噂をたどり探しましたが見つかりませんでした。
歴史的に日本全体の傾向を見ますと、幕末以前、江戸時代に流行ったのが人形芝居で、明治になり流行ったのが獅子舞です。篠ノ井の獅子もその延長線上にあります。篠ノ井では終戦後にも近郷近在でいくつもの獅子舞があり、賑わいました。現在では五明区・瀬原田区の獅子舞いがあります。
何か目先の変わった世間をあっとさせる物を出したい、ならば思い切って大きな獅子を作ってやろう。それも流行で近くの地域の中、競争で大獅子が作られました。内堀・芝沢の心意気です。
日本の獅子舞は、全土で行われていて、そのヴァリエーションは多岐にわたりますが、大別して二つあります。伎楽(ぎがく)系の獅子舞と風流(ふうりゅう)系の獅子舞です。起源は大陸から伝来したものと考えられます。
伎楽系(神楽系)の獅子舞は西日本を中心に全国に分布し胴体に入る人数で大獅子、小獅子と区分されます。大獅子は操作する人以外に何人かが胴体に入ります。小獅子は操作する一人だけが胴体も兼ねます。
風流系の獅子舞は関東・東北地方に分布します。一人が一匹を担当、それぞれが腰に括りつけられた太鼓を敲きながら舞います。もっとも多いのは三匹の獅子舞で東京・埼玉などのかつて武蔵国と呼ばれた地域の農村の郷土芸能・民俗芸能になっています。
篠ノ井の獅子は伎楽系の大獅子です。かつては「狂い獅子」と呼ばれまたある時代は勢(きおい)獅子と呼ばれてきました。
祭りの起源を探ると夏至・冬至など太陽との関係が不可分です。かつて、この地の祭りも年毎に催行を決めていました。そこには常に新たな再生がある、それが祭です。
【参照文献】
- フレイザー「金枝編」全五巻
- 岩波文庫 三隅治雄「芸能の谷 伊那谷」全四巻
- 新葉社 滝澤公男「新編 栄村沿革史」
- ウィキペディア「獅子舞」
大獅子の軌跡
大正十三年七月十七日に撮影された初代の獅子です。当時は写真を日常的に撮影することはなかったことから、この写真は初代の獅子が作られたときに撮影されたものと考えられます。したがって初代の獅子は、大正十三年に作られたのではないかということがうかがわれます。大正三年に始められた篠ノ井祇園祭は、十年後に「宝船」から「獅子」に変わったことが分かります。
「城屋」「理髪大矢」の看板が見えますので、場所は津崎町の入り口です。 屋台があります。ここの部分を拡大すると、車輪がついていなように見え、持ち上げて歩いたのではないかと思われます。また、形が「宝船」の後ろにあった屋台に似ていることから、この屋台に白い幌をかぶせ、南信地方に伝わる「獅子屋台」のように、お囃子方が入り、歩きながら演奏したのではないかと思われます。
三味線を弾く方が見えますし、大正十三年ごろの法被はゆかたのようなもので代用していたのではないかと思います。
羽織を着ておられるのは、萬星舎(書店)の西澤さんです。祭りの責任ある役目を果たしていたのではないかと思われます。
上の写真は、「斉藤旅館」の看板が見えますので、篠ノ井駅前で撮影されたものです。「斉藤旅館」は、篠ノ井線工事関係者の食事をまかなっており、明治三十三年に篠ノ井駅での駅弁の立ち売り営業許可を受け駅弁の営業を開始しました。鉄道を通しての人や物の流れが盛んであったことがうかがえます。初代の獅子は、上田市に差し上げたというような話もあるとのことでしたので、上田市で獅子が伝わっている町の区長に問い合わせたところ、篠ノ井からいただいたという話は聞いていないとのことで、初代の獅子の行き先については、結局分かりませんでした。
当時の篠ノ井駅周辺は、次のようでした。
昭和二年八月二十日に完成した二代目の獅子です。
昭和三年の「篠ノ井町町報」によると、『北村清治郎さんが奔走し、松嶋長治郎さん製作した。大きさは四尺五寸に五尺(約百三十五㎝、百五十㎝)、幌の長さが五十尺(約十五m)で、松嶋さんはその後お亡くなりになってしまった。松嶋さんの遺作として、永久に悪気を払って福運を充たすことができる篠ノ井町の宝としたい』というようなことが書かれています。
後ろには、二階建ての建物がみえますが、郡役所、今の埋蔵文化財センターで撮られた写真だと思います。
これは昭和二年に二代目の獅子が作られたときの「製造買い物帳」です。
二代目獅子の製作に深くかかわられた北村清治郎さんのご子息である北村市朗さんより提供していただきました。寺澤商店(金物一式)、田中製材所、金子屋支店(綿糸商)、新海呉服店、堀内鐡工所、中嶌鐡工所、吉池鐡工所、田中英廣堂、三笠屋、町田呉服店などの記載があり、材料を仕入れたり寄付していただいたりして、合計二十七円七十九銭かかったことが分かります。
大正十三年に初代の獅子が製作され、二代目の獅子の製作が昭和二年、この間わずか三年で新しい獅子を作ったことになります。昭和四十三年五月発行の内堀公民館報四号で、北村清治郎さんは「初代の獅子は十六貫(約六十㎏)もあって、重く、肩にかついだが、暑いときなので、とてもたいへんだったのです」と言われています。獅子を作るのには、高額なお金が必要です。にもかかわらず、暑いときで重くて、たいへんという理由で、獅子を新しく作ってしまった先人の方々、先人の祇園祭にかけるなみなみならぬ思いがあり、お祭りに対する「心意気」のすごさがうかがわれます。北村清治郎さんは公民館報でこの頃の様子について「祇園は、始めの頃は樽をかついでやっていたのが、御神輿になり、いきさつもいろいろあったのですが、天王おろしに何か余興をやるということで、獅子をこしらえました。初めて祇園祭をもってきたのは、田中写真屋のじいさんと萬星舎のじいさんで、稲荷山や屋代にもあるのだから篠ノ井でも賑やかなことをやろうと始めたのだそうです」と話されていました。
また、「勇獅子製造買い物帳」とあることから、二代目の獅子は 「勇獅子」と呼ばれていたことが分かります。この名前は恐らく歌舞伎に由来しており、獅子が登場する歌舞伎の演目に「連獅子」「鏡獅子」がありますが、その長唄の一節に「獅子が勇んで」「獅子が勇み立ち」があり、獅子が勇壮に振る舞うという意味で「勇獅子」と名付けたのではないかと思われます。
これは昭和四年七月に作られた家や商店の名前入りの法被の一覧です。
当時は法被という言い方でなく「獅子印半天」と呼ばれていたことが分かります。長老のお話では、この名前入りの半天がなければ祭りに参加できなかったとのことです。
二代目の獅子と内堀の神楽の獅子です。この写真から、二代目の獅子は、神楽の獅子を参考にして作られており、すでに近隣にあった権堂や稲荷山の獅子を参考にしなかったということが分かります。
また、権堂や稲荷山の獅子は一人でかつぎますが、篠ノ井の獅子は、三人でかつぎます。このことから、先人の方々の、同じようなものをつくってもしょうがない、どうせ作るなら、独特なものをつくろうという「独自性」の強さが伝わってきます。
この写真は、西澤昭治・悦子様(萬星舎)のお宅にあったものです。
正面の建物は「山岸化粧品」です。子どもも大人も皆、着物を着ていることから、大正時代の祇園祭ではないかと思われます。獅子、神輿のほかに、「山車」が祇園祭に登場していたことが分かります。
「山車」に乗って太鼓をたたくのは、おっしょうさんとまだ小さな女の子ように見えます。このような祇園祭に登場する「山車」は小布施、鬼無里など、各地にあります。
上の写真のように屋代にある「山車」に似ていることから、「屋代第一地区山車保存会」の米澤義道氏にうかがったところ、「屋代の山車に確かに似ているが、篠ノ井に貸し出したという記録は残っていない。保存会の仲間にも尋ねてみたが、貸し出したという話は聞いていない。篠ノ井の祇園祭に、屋代のものかもしれない山車が登場している写真があるということは、保存会の記録として、残したい」旨のお話がありました。
昭和三年の「篠ノ井町報」です。篠ノ井祇園祭は、七月十三日天王おろし、十九・二十日に行われたようです。委員長は、宮入作太郎さん、初代内堀区長です。酒井健之助さんは、芝沢唐沢園さんです。
お揃え係には、寺沢信太郎さん、マルデンの宮入佐久さん、宮原仙太郎さんの名前があります。屋台係の主任の米沢庫萬治さんは、芝沢の3代目区長です。内堀からは、大矢政治さん、さわやの柳澤郡太郎さん、笠井芳太さんの名前があります。祇園祭委員長、副委員長、会計、それぞれ内堀、芝沢から出ており、共同で取り組んでいたことがうかがわれます。お揃え係は、お祭りに使うものをそろえる係で、当時天王あげでは、会計係を助けるために、祭りで使ったものを全部セリにかけて売ったようです。せりの仲買人役を務めた小笠原和典さんからは、「500円ぐらいの酒を2000円で売ったり、芸者さんが使った箸だとか、うまいことを言って、ものすごく高く売れるようにしたりした」「屋台に敷いたござがよく売れた」というようなお話をうかがいました。
ほかにも、屋台係、獅子係、神輿係、祭典係があったようです。
二代目の獅子が完成した翌年の昭和三年の獅子です。場所は「片倉」の前だと思われます。二階建ての屋台が見えることから、昭和三年には、獅子に車輪のある屋台がついていたことが分かります。
屋台は六常会の西澤 猛さん宅(今は敏英さん)の南側にあった倉庫にしまわれており、祇園祭の頃になると、車輪を大川(上中せぎ)につけて、ゆるみをとったとのことです。
左の写真は昭和初期と思われます。中央で手を広げておられるのは、2代目の獅子製作に奔走された北村清治郎さんです。 昭和三年に撮影されたもので、 左より、駅前食堂の松村成夫さん、万代町の北村市朗さん、万代町新聞店の丸山豊郷さん、万代町北村三子夫さん、万代町の飯島友茂さん、仲の町瀧澤三郎さんです。「篠ノ井町祇園祭 合併記念 内堀子供連 勇獅子 昭和三年七月十九、二十日」とあることから、昭和三年に内堀の子供連がつくられ、子供獅子が始められたのではないかということがうかがわれます
昭和九年の夏です。「田島洋服店」の看板が見えますので、芝沢の旭町で撮られたものです。
当時は駅前から篠ノ井厚生連病院への道路はなく、この道が更級農業高等学校を経て松代に続くメイン道路でしたが、まだ舗装がされていない道と、祇園祭が行われる七月中旬ということで、田植えの終わったばかりの水田が見えます。
獅子の前で座っている方は「川出家 清子」と書かれた法被を着ています。この法被は、清子さんという芸者さんが、お金を出して、自分のコマーシャルとして作ったもので、この方はこの芸者さんと親しかったので、清子さんに頼まれて、法被を着て宣伝していたのではないかと思われます。
屋根に登っている方がおられますが、このお宅は長野商工会議所篠ノ井支所の中嶋君忠さんの当時のお宅で、写っている方はお父さんです。
昭和十一年の写真です。左の写真はわらぶき屋根のある家が写っていることから、万代町で撮られたものではないかと思われます。
昭和十三年「篠ノ井祇園祭 子ども獅子」です。交番、萬屋商店が写っていることから、篠ノ井駅前で撮られた写真です。五十七人の子ども達です。「祈 武運長久」の看板が見え、戦争の色が濃くなってきました。
昭和十四年年陸軍の高官が駅前通りを行進した写真です。
昭和十四年の「子ども獅子」の写真です。ますます戦争の色が濃くなってきました。「反英 郡民大会 会場 通明小学校」の看板がみえます。「片倉」の前で撮られた写真で「仮宮」も見えます。
六十人の子どもたちですが、女の子たちは見ています。この頃、女の子は祇園祭に参加できなかったのではないかと思われます。女の子が祭りに参加できるようになったのは、戦後になってからです。
子どもたちが持っている灯籠には、「勇獅子 子供連」と書かれています。小さな子どもたちが持っているのは「竹おんべ」です。長老のお話によれば「竹おんべ」の子どもたちは先ぶれの役割を果たし、「商売繁盛」など元気なかけ声で区内を回ったそうです。店先ではご祝儀がいただけるまで「商売繁盛、商売繁盛」と竹おんべを地面に突きながら大きな声で叫んだとのことです。竹おんべは、毎年芝沢にあった竹屋さんに子どもの数だけ注文し、おんべは家に持ち帰って、どんど焼きまで飾っておいたそうです。
昭和九年、田中写真館で制作した「篠ノ井祇園祭の映像」には、「子ども神輿」「おんべ(よいよい)」「子ども獅子」「山車」「大人の獅子、神輿」が映っていました。このことから、「子ども獅子」は昭和三年、「子ども神輿」も昭和九年には篠ノ井祇園祭に登場していたことが分かりました。
昭和五十年七月発行内堀公民館報第十六号に「歴代祇園祭執行委員長の方々」という記事があり、昭和二十五年度風間貞吉様に始まっています。(別紙参照)このことから太平洋戦争が始まったのは昭和十六年十二月八日、その年の七月には祇園祭を行ったかどうかは不明ですが、昭和二十四年までは祇園祭は中断され、祇園祭が復活したのは、昭和二十五年になるのではないかと思われます。昭和二十五年七月には、篠ノ井町と川柳村、東福寺村が合併しています。下の写真は昭和二十五年頃の祇園祭の写真です。
昭和二十八年に内堀の公民館活動が始められましたが、最初の公民館は二階まである建物で、昭和三十八年三月に完成しました。それまでは祇園祭を執行する事務所は、篠ノ井祇園祭が始められた大正三年に開業し、繭の集散所であった片倉組の一角(現中央パーキングの場所)をお借りしてありました。下の写真は、最初の公民館の前で撮られたものです。
昭和六十三年、「大人獅子頭」と「子ども神輿」「幌」が新調されました。その理由を当時の南澤保行区長は、公民館報三十六号で、「大人獅子頭については六十有余年の由緒あるものですが、いたみがひどく、このまま使用すれば壊れてしまいそうです。内堀区の皆様に親しまれ、また数々の思い出深い獅子頭を文化財として保存してほしいとの願いから新調することに決定しました。幌と子ども神輿は区内の業者にご協力願って購入しました。子ども神輿は軽くてしかもりっぱな子ども神輿です。きっと子どもさんにも喜んでいただけると思います」と語られています。
前列右から二番目の方は、三代目の獅子頭新調に中心的な役割を果たされた西澤 猛さんです。西澤さんは「万寿の湯」のご主人でしたが、当時の様子を奥様は次のように話してくださいました。『新しい獅子を作ることになって、西組の早川さんのところに毎日のように通っていた。「天王おろしまでに作らなければいけない」「下手なものをつくれば、俺が笑われる、死んだ気でやってくれ」などと早川さんを激励していた。「自分でかついでみて、ここが違うから直してほしい」と、何回も修正していた。気がついてみると、自転車がなく、「お風呂がぬるい」などとお客様に言われたことがあり、仕事をほったらかして、早川さんのところに通っていた。天王おろしの日に獅子が完成し、トラックに積んで公民館に運ぶ際、下に敷く布にシーツを出したら「人が寝たものを獅子に敷けるか」と叱られた。新しい布を用意し、運んだ。私は、お赤飯を炊いて、公民館の事務所に届けた』西澤 猛さんと奥様の祇園祭にかける心意気や「獅子」対する思いが伝わり、先輩方のすごさがうかがわれます。
二代目の獅子と新調なった三代目の獅子
平成三年六月十五日、IOC総会で平成十年に冬期オリンピックが長野で開催されることが決まり、翌平成四年六月十四日長野市中央通り周辺で開かれたオリンピック決定一周年記念「北信濃獅子の祭典」に芝沢区の獅子とともに参加しました。この祭典には権堂、稲荷山、松代の獅子も参加しました。
平成九年にはオリンピック公園開設記念イベントがあり、参加しました。
平成十年二月七日~二十二日まで、冬期オリンピック長野大会が開催されました。篠ノ井地区は開・閉会式の場であり、篠ノ井駅から式場までは、国内外からたくさんの人々が徒歩で移動することが予想されました。この機会に古くなってしまった屋台を新調して、獅子とともに開会式、閉会式当日に世界中から訪れる観客に見ていただこうという機運が高まりました。小布施町の笠原敦徳さん(笠原建設)に依頼し、ケヤキやヒノキをふんだんに使った屋台が新しく完成しました。
平成十五年、毎年獅子の奉納舞が行われる布制神社境内にある津島社(祇園祭の神様である牛頭天王を祀る)の仮宮が新しくなりました。改築記念誌「布制神社」によれば、「九十万円の決算額で芝沢の笠井工業株式会社様の施工による」ことがうかがわれます。仮宮が新しくなったいきさつについては長老のお話ですと、「布制神社本殿、神輿殿改築期間中の神輿の収納場所として、まずプレハブを考えたが百万円近い予算が必要とのことであった。それなら、古い仮宮に神輿を収納し、同様の予算で新しい仮宮を作ろうということになった。正面の彫刻のある柱は古い仮宮のものを活かせるということで、百万円の予算より安い九十万円で仮宮を新しくすることができた」とのことです。
平成十六年は「篠ノ井祇園祭九十周年」記念の祇園祭が行われました。
平成十七年二月二十六日「2005年スペシャルオリンピックス冬期世界大会 長野」が開催されました。スペシャルオリンピックスは、知的発達障害のある競技者がベストを尽くす競技の場です。公民館報第六十号でエムウェーブの開会式に参加された坂田忠久さんは「内堀区民として世界的な大会に参加できる喜びを感じながら出演させていただいた。私たちの獅子が一番注目を集め、各国の人々が獅子の写真を撮りに集まってくるという人気ぶりでした。」と出演してよかったことを語っておられました。
平成十八年「冬期オリンピック長野大会」や「2005年スペシャルオリンピックス冬期世界大会 長野」などへの篠ノ井勢獅子の貢献が認められ、長野市内にある重要なものについて市が保存する長野市無形民族文化財指定の候補になりました。当時の区長 宮入明さんからの当時の状況を教えていただきました。
△平成十八年七月二十六日
篠ノ井祇園祭奉納獅子についての会議 於内堀公民館
市文化財保護審議会委員 関保男
市教育委員会文化財課 専門主事 山田幸彦
市立博物館 学芸員 細井雄次郎
保存会 田村進一 伊藤善輝 羽生田政信
世話人会 後藤長栄 堤敏 石川尋士 中山好則
祭典係 宮入修
区長 宮入明
長野市文化財課三人の方が、練習風景を見にこられ、獅子の歴史、舞い方、お囃子の曲などに細かに質問されました。
△平成十八年七月三十日 午後五時~八時三十分
篠ノ井祇園祭を市文化財保護審議会委員と市担当課が視察
市文化財保護審議会委員 関保男
市文化財課 課長 北村眞一郎
係長 春原一男
専門主事 山田幸彦
市立博物館 学芸員 細井雄次郎
訪れた五名の方々には祭りの食事を味わっていただき、その後五名の方々は仮宮での奉納舞、内堀の大人と子ども獅子の親子競演を最後まで熱心に見学されました。
△平成十八年十二月十八日 市へ文化財指定陳情
市教育委員会 立岩睦秀教育長へ陳情
陳情者 渡邉一正 篠ノ井商工会議所会頭
鳥羽春夫 柴澤区長 宮入明 内堀区長
世話人会 後藤長栄 堤敏 石川尋士
田村進一 保存会々長
古山一郎 篠ノ井商工会議所専務理事
原啓治 市篠ノ井支所長
紹介議員 若林佐一郎 小山峯晴 宮崎利幸 赤城静江
△平成十九年三月十二日
区自治会長、区議会議員会議
篠ノ井祇園祭で披露される内堀区・芝沢区の獅子舞「篠ノ井大獅子」について、長野市無形民俗文化財保護審議会が二月十九日の会合で文化財指定を市教委に答申し、長野市無形民俗文化財に指定されたことが報告された。
以上のような経過で長野市無形民俗文化財指定を受けることができましたが、指定されたことを契機に名称が「篠ノ井大獅子」となりました。昭和二年には「勇獅子」と称していましたが、いつの頃からか「勢獅子」呼ばれるようになっていました。ところが、すでに平成十七年に権堂と松代地区の獅子が「勢獅子」の名称で長野市無形民俗文化財の指定を受けており、重複した名称では指定ができないということから、( )の提案を受け入れて「篠ノ井大獅子」という名称で指定を受けることになりました。
「長野市無形民族文化財候補物件調査書」には、なぜ篠ノ井大獅子を長野市の宝としたかの理由が次のように述べられています。
平成二十年七月五日、「篠ノ井大獅子市無形民族文化財指定祝賀会」が行われ、記念の幌と和太鼓がお披露目されました。
篠ノ井大獅子が長野市無形民族文化財に指定された主要な理由である芝沢区の大獅子との「競演」は、芝沢区で大獅子が作られた昭和三十一年以降に始められたことは確かですが、何年から始められたのかについては記録がなく分かりません。篠ノ井祇園祭に大きな貢献をされてきておられる堤 敏さんのお話ですと「オリンピックが決まったとき、塚田市長の要請で、芝沢と内堀がIOC委員の前で競演したが、その十年から十五年くらい前ではないか」とのことでした。したがって「獅子の競演」は昭和の末期、昭和五十年代から始められたものと思われます。祇園祭の最後に仮宮にて、内堀、芝沢両区が式・舞をして神事にて終わりとしていました。見に来てくださる人たちにもっと感動を与えることができないか、また時間的にも余裕があるので、内堀・芝沢で競演をしたらと考えて始められました。 近隣の方々も楽しみにしておられ、祇園祭といえば「競演」を連想する方々も多いことから、「長野市無形民族文化財候補物件調査書」にあるように、内堀、芝沢両区が互いに芸をみがきあう場となるように努めていくことが近隣の方々の期待に応えることではないかと思われます。
また、また権堂や松代、稲荷山など他の地域に見られない篠ノ井祇園祭独特なものであり、誇るべきすばらしいものとしての「式」についても、いつ頃から行われていたかは不明ですが、仮宮前などで奉納される舞で、大獅子舞の中で最も格式のある舞です。「式」は、舞方三人が一心同体で獅子頭を左右八の字を描きながら大きく振り、段々に小さく振ることによって、獅子が静かに眠りに入ることを表し、蝶は眠っている獅子にいたずらをしますが、それに獅子が怒り蝶を食べようと大口を開けて追いかけるという場面を表していると言われています。(唐木田清忠さん談)別な説として、獅子が大口を開け、蝶を追いかけるとき、獅子がためていた厄を蝶にはき出し、厄を蝶がもっていくというように言われることもあるようです。
「式」の舞ができるようになると、一人前の舞方になるそうです。
このような獅子と蝶(蝶の精)とのやりとりは歌舞伎の演目である「鏡獅子」に見られます。「鏡獅子」には獅子が台上で体を落とし右足だけを前に出した姿勢で眠りに入りますが蝶の精に起こされてしまった後、白く長い毛を振る勇壮な毛振りを見せるというこの演目の最大の見せ場があります。また、「式」に流される曲は、眠っている獅子が蝶の精に肩をたたかれ、目を覚ます場面で使われている長唄です。
このようなことから「式」は歌舞伎の演目である「鏡獅子」の一場面を参考に先人が創作したものと思われ、先人の教養や創造力の高さがうかがわれます。
大谷利一著「篠ノ井の歴史と暮し」には、篠ノ井の文化・芸能について『明治三十五年ごろ、栄村と布施村の村境に「栄布座」という芝居小屋が創設され、旅回りの芝居などの興業が行われていた。昭和三年に閉館し、芝沢に移転して町営で映画を上映、「篠ノ井活動館」と言われていた。また「栄布座」の移転後は、その跡に「篠ノ井劇場」が建設された。建設は昭和三年、篠ノ井町直営工事として予算三万円で着工されたが、約六万円の工事費がかかり、町は多額の負債を追うことになった。そのため、栄村との合併の際に問題となり、当時の滝沢豊馬町長は辞職し、後任の町長が決定しないため、県ではやむなく管理町長として上山田村出身の宮原民雄を派遣して、昭和六年まで町政を担当させることになった』の記載があります。「篠ノ井劇場」には回り舞台まであり、歌舞伎をはじめとして芝居の公演が行われていたようです。先人が「式」を創造した背景には、篠ノ井町が大幅な予算超過になりましたが、文化・芸能を大切にしてきた施策があったと思われます。
長野市無形民俗文化財指定に関し、『子どもの参加も多く、区をあげての一大行事となっている』と評価された要因として、幼児がかかわる「おんべ(よいよい)」があります。大正三年に始められた篠ノ井祇園祭当時から、子どもたちを大切に考え、幼児にも役割を与え、子どもたちを祭りにかかわらせようと考えてきました。そして、PTAのお母さん方のお力で幼児にも役割を与えようとする伝統が守られています。
平成二十一年四月十一日には、子どもたちの祇園祭への参加を大切にしようとする考えから、子ども用お囃子屋台が新しくなりました。
平成二十一年五月十日、善光寺御開帳奉納行事に参加しました。当時の内山 一区長は公民館報七十一号で「昨年の祇園祭終了直後、商工会議所から篠ノ井大獅子を来年の善光寺御開帳奉納行事に繰り出せないかというお話があり、こんな名誉はことはないと考え、関係の皆さんと相談したうえで、快く引き受けました。当日は五月晴れの中、国内外からの参拝客と交流しながら粛々と進み、善光寺では、大本願鷹司誓玉上人、大勧進小松玄澄上人らの出迎えを受け、その前で奉納舞を披露し、無事奉納を終えることができました。篠ノ井人の誇りと心意気を全国に発信できたと思う」言われています。
平成二十三年には、「信州しののい 人・モノ・交流文化のまち」と題して、篠ノ井の潜在的な魅力を掘り起こし、磨き上げて、全国に発信する「篠ノ井イヤー」としていろいろな催しが行われました。その一環として七月三十日には、「篠ノ井大獅子の祭典」が行われ、篠ノ井大獅子二基に加え、権堂の勢獅子と千曲市上山田温泉の勇獅子を迎えて四基の大獅子が篠ノ井駅前を勇壮に練り歩きました。